下町歴史部

いま、街絵師。
生涯、食べ道楽。

田中けんじ氏。
1940年(昭和15年)、福井生まれ。
1956年、上京して浅草へ。
いろいろ経験し、浅草在住は継続中。


「10年くらい前ですね。70歳のとき、英語も話せないのに一人でニューヨークに行ったんです。
 会話はぜんぶイラスト(笑。

そこでね、
ようやく、60年以上、胸に持ち続けた夢を叶えることができました。

それは…

エンパイア・ステートビルの展望台で、
コカ・コーラを飲むことです。

ハッハッハッ」





私は5歳の時に、福井で終戦を迎えました。
いまの時代ではNGな表現だと思いますが、
戦時中は、アメリカ軍を“鬼畜だ”と教えられてね。
そりゃ怖かったですよ。

それがね、
戦後すぐでした。
アメリカ軍が飛行機でやってきて、
空からいろんな支援物資を投下するんです。
我が国からの支援がなかなか来ない中だったんで、
その早さには本当に驚きました。

食料、鉛筆、チョコレートだとか、
コカ・コーラなんかも、
とにかく今まで見たこともない、
衝撃的に美味しいものもたっくさんある。
子供心に「アメリカはいい国だな、すごい国だな」なんて思うわけですよ。
いろんな政治的というか、背景があったことは、
ずいぶん後になって、いや最近?気づくわけですけど(笑。

で、
その豊富な物資の中には、
アメリカの絵が描かれていたり、
カラー写真が記載してあったりするものあるんです。
高層ビルとか、そういうのがね。

私が絵が好きになった原点、でしょうか。

小学校では、戦艦大和やゼロ戦の絵をずっと描いたりしてました。

小学校4年の時には、新聞で「日本通信美術学院」(東京・千駄ヶ谷)という通信教育の学校の広告を見つけ、すぐに父親に頼み込んで始めたり…。

とにかく、どんどん絵に関わっていたいという思いが強くなってきてました。

そうやって中学卒業の時、
どうにかして東京に行きたいと思い、親にたのんで、
浅草で運送会社を営んでいた親戚に居候させてもらうことができ、
仕事を手伝いながら、印刷会社で画工見習をはじめることになったんです。

1955年当時、その印刷会社は規模は小さかったのですが、
日本中のポスターを作っていたり、
のちに浮世絵師の最後の世代と言われる人たちがいたり、
とにかく10代の私にとって、“すごい人”たちがいたんですね。
いま思えば、そこで浮世絵に関わったことが、
私の仕事のルーツになっているんだと思います。
そこで画工見習から画工になり、
25歳で独立。

高度成長時代で、三種の神器と言われる、
テレビ・洗濯機・冷蔵庫がものすごい勢いで売れていて、
その販売のポスターやチラシなどの広告物のデザインの注文を
昼夜関係なくいただいてね。
その頃には、画工といってリアルな絵を描くことだけじゃなく、
イラストや商業デザイン、レタリングなど、
いろんな仕事をやってました。

うまく時代に乗って、
寝る時間もないくらい働いて…儲かったかなぁ(笑。
だけど、全部使っちゃった(笑。
ほとんど食。贅沢ですよね。

もともと東京に出てきた頃から、
「なんて美味いもんがいっぱいあるんだろう」と思ってました。
故郷の福井では、見向きもしなくなるほどカニは食べましたが、
東京で初めて食べたマグロは美味かったのを覚えています。

あと、浅草といえばやっぱり肉ですね。
当時はもちろんインターネットなんてない世界。
街を歩いて、気になった店構えを見つけては入ってました。

独立してしばらくして、会社の名前も、
レタリングとイラストをするぞ!という意味で
「レタスト」という社名にしたのも、
そうやって時間があれば食べ歩きをしていた頃でした。

年齢を重ねてくると、馴染みのお店も随分と増えてきて。
その頃には、私の身体は全部、
浅草の食べ物屋さんのメニューで出来ていたんだと思います(笑。

ある時、浅草の食道楽が講じて食べ歩きのイラスト地図を作ったんです。
今では世の中にたくさんある手書きマップですが、
ルーツは私じゃないかって本気で思ってます(笑。

実は、このイラスト地図をドーミーインさんが見つけて、
私に連絡をとってくださった。

「浅草にビジネスホテルを作るので、
 “自分の足と舌で浅草を確かめている”田中さんのテイストで、
 お客様に街をご紹介したい!」と。

“くいだおれおじさん”と名乗っていた私には、
願ってもない嬉しい仕事ですよね。
美味いもん食べて、仕事になるんだから。
2つ返事で引き受けました。




ちょうどその後くらいかな。
60歳になって仕事のスタイルを変えようと決心。
「お天道様の下で仕事する」というものです。
それがシャッター絵。
浅草のお店のシャッターに歌舞伎の絵を描くこと。
今ではシャッターの絵ってどこでもやってますが、
当時はまだ珍しかった。
描きにくいし、開閉で絵が傷むし、
だれも真剣にやってなかったんです。
じゃ、自分が真剣にやろうと。

作品第一号は五重塔の前にある、
5656茶屋さんの幅25メートルのシャッター絵。
これが大好評になったんですけど、
お店がコンビニに変わって、
幻のシャッター絵になっちゃった。
今でもあるはずなんですけど、
24時間営業だから、2度とシャッターが閉まらない(笑。

そうやってはじめたお天道様の下の仕事でしたが、
忙しくなってくると、
雪が降ろうと、雨が降ろうと、夜中の3時頃まで、朝は6時ごろから。
もうお天道様どころじゃないですよね(笑。

だけどその甲斐あって、
またまたドーミーイン浅草さんのシャッターを描く仕事にもつながったんです。

世の中、何がどうなるかわからないですよね。
事務所に引きこもりっぱなしじゃなく、
いろんな所へ出かけてたのが良かったかな。

そうやって、
グラフィックデザインから、シャッター絵師になり、
いまはシャッターだけじゃなく、
街のいろんなところに絵を描くから、
街絵師、って感じですね。


とにかく、15歳で東京・浅草に出てきて、
それからずっと浅草。


歌舞伎が日常にある浅草。
何代も続くお店がある浅草。
情が深く、地元生まれ地元育ちがたくさんいる浅草。
インバウンドに溢れ、地元の人間でも裏道が通りづらかった時も、
なぜか住みやすさは変わらなかった浅草。
建物や道は変わっても、深呼吸すれば落ち着く街…浅草。


そんな街に住む人間がね、
戦後の焼け野原で見た写真に写っていたニューヨークに行って、
エンパイア・ステートビルの展望台で、
コカ・コーラを飲んだんです。


60年温めてきた夢は、確かに果たしました。

観光客に混ざって、
ここが、戦後まっさきに食料と甘い美味しさと憧れを与えてくれたあのアメリカ、
写真に写っていた高層ビルの展望台にいるんだ…、って噛み締めました。

それは感慨深かったですよ…。



だけどね、ニューヨーク。
3日で飽きちゃった(笑。

憧れ続けてきた分厚いステーキ、
ぜんぜん美味しくなかった。

浅草で食べる肉のほうが、
断然美味しいもの。

その時初めて思ったんです。

いくら刺激的な街に行っても、
自分の身体を作っている街には敵わない。


私には、浅草がいちばん“水が合う”んです。



ニューヨークで買い求めたタイムズスクエアのイラスト。








自分の足で街を歩き、
「いい!」と思ったことを人に伝えていく…
それが、“くいだおれおじさん”という人。

作家・永井荷風先生に憧れ、
先生のコスプレをして、
先生の馴染みのお店に行くのが何よりの楽しみだという、くいだおれおじさん。
見せていただいた写真には、永井荷風先生と馴染みだったという大将や女将と一緒に、
顔を真赤にし、ビールグラス片手に満面の笑みを隠さない、くいだおれおじさんが写っていました。
「実は私、ほとんどお酒飲めないんですよ。ハッハッハッ」ですって。


そんなくいだおれおじさんの目に映るいろんな街の風景。
『下町歴史部』の田中教授編が、
いよいよ次回からスタートします。





◆追伸◆
くいだおれおじさんこと、田中教授!
ニューヨークに思いを馳せているのは、教授だけじゃありませんよ!
私たちだって…


著者名:

DOMINISTYLEの活動を楽しんでいただくために、様々な活動を行っています。サウナビギナーで、最近、ウィスキングに興味津々。