下町歴史部

浅草ロック。
<前編>
六区興業街



先日、フランスに関する情報番組で、
パリ市内は、「3区」とか「6区」とか、
1〜20の数字で呼ばれる区があり、
その区ごとにプライドや特徴があるような話を紹介していました。
外国っぽいな〜なんて思って見ていましたが、
ふと「そういえば…」と。

「六区」と聞いて、
真っ先に浅草を思い浮かべる人は、
やっぱり江戸の人だと思います。

いまどき「区」に数字がついて呼ばれる場所なんて、
日本でほかには見かけません。


体が浅草でできている田中教授にとって、
「六区」とはどんな響きか教えていただこうと、
カフェ・バッハさんで会う約束を取り付けて、
先についた私ですが、
「田中教授と待ち合わせで…」と伝えて
店員の方が案内してくださったのが、この焙煎機前のお席。

壁にかかる絵画は、田中教授の作品でした。


では、ロック、Rock、六区の散歩へ参りましょう。






東京都で最古の寺とされる金龍山浅草寺。
628年推古天皇の時代、
隅田川から引き上げられた観音菩薩を本尊として、
善男善女の信仰の拠り所として、
「浅草観音」・「観音さま」として親しまれている。

明治維新後、
東京市は浅草公園として一区から七区に分け、
六区地域を庶民娯楽の興業街に定めた。
それまで浅草寺境内西側の奥山が
見世物小屋として江戸の代表的な盛り場であり、
子供狂言(歌舞伎)・軽業・芝居小屋・
珍獣・曲芸などが行われていた。
それらを含めて六区興業街に集約され、
国内最大の歓楽街が誕生する。

とは云っても当時の六区は浅草田圃の一角で、
明治5年図のように人家もなく地盤も緩い火除地であった。
そこで現在のJRAウインズやまるごと日本の地に穴を掘り、
その土砂を六区興業街の埋め立てに使い造成した。
掘った穴に雨水が溜り
次第に大きくなったのが2600坪の大池で、
形から瓢箪池(ひょうたんいけ)と呼ばれた。


時を経て昭和26年、
戦災で焼けた浅草寺を再建する為に
池は大手商社に売却され埋め立てられる。
現在その東側に建つのが御宿『野乃』であり、
建設中の別邸が続く。
浅草の歴史に輝かしい一頁を飾ることになった。



―――劇場小屋がひしめく六区興業街は人の波でうずまり、
江川の玉乗り・浄瑠璃・大道芸と大賑い。
藪入り※ともなると、
“小僧さん”といわれた人達が浅草に集まり
一大娯楽街として賑う。
※藪入り(やぶいり)…奉公人の休日

明治23年、
興業街を見下す瓢箪池の北側に、
日本一の高塔『凌雲閣(りょううんかく)』が誕生した。
浅草十二階と呼ばれ、
品川沖から富士山、東京市中を見下し、
現在のスカイツリーのような人気を博した。
日本で最初のエレベーターが設置され、
大変な人気となった。


明治29年には活動写真が渡来して、
浅草は映画上映の中心地となる。
当時は無声映画と呼んで、
弁士と名乗る人たちが、スクリーンの脇で解説した。
その人気で映画街とも呼ばれた。

そこに昭和6年、第2の革命といわれる
フィルムと同時に声が出るトーキーが発明され、
現在のシステムが確立、活動弁士は失職した。


―――映画の人気と供に
演芸場・寄席・女剣劇・レビューと
多士済々(たしせいせい)だったが、
その中で浅草オペラが庶民と結びついて
独得の人気を博することになる。

“庶民とオペラ”…

一見馴染まないと思われたが、切り口がうまかった。
本格的なオペラの中から「サワリ」の部分を取り出し、
唄入りで浅草風の劇中劇に仕立ててしまった。
これなら分かりやすいし、メロディも
「風の中の羽のように・・・」(リゴレット)、
「恋はやさし野辺の花よ・・・」(ボッカチオ)と、
大衆が気軽に口ずさむ♬~

美男美女が流行歌のように唄い演じて
浅草オペラは席巻した。
田谷力三・藤原義江の舞台に失神する女性も出る有様。



―――昭和3年、綺羅星の如く現れたのが
麻布十番は煎餅屋の伜(せがれ)、「榎本健一」。
『エノケン』の愛称で慕われる
軽演劇史上最高のエンターティナーが誕生する。

抜群のセンスと身のこなし、時代を先取る感覚で笑わせる。
袖の緞帳(どんちょう)など、
上に登って唄いながら降りてくる。

川端康成が素質を見抜き、
エノケンが在籍していた劇団“カジノフォーリー”を舞台にした小説「浅草紅団」を、
朝日新聞に連載すると人気は最高潮!
浅草最大の松竹座では、エノケンは座長として
座員150名・楽士25名の国内一の劇団となる。

ちなみに私が描いた奥山おまいりまちシャッター絵シリーズ、
5656(ゴロゴロ)茶屋の24mの<法界坊>その地が
エノケンがデビューした浅草水族館2階『カジノフォーリー』のあった場所。
エノケンは映画で<法界坊>を撮っているので、
それを意識して描いたものである。



―――大正12年の関東大震災では大変な被害を出したが、
庶民を元気づけるには“笑いが一番!”と、
関係者の努力で復興は早かった。
ところが13年後、
第2次世界大戦の空襲で再び焼野原になる。

戦後復興の大きなものでは、
昭和33年10月の浅草観音本堂落成がある。
このことは浅草の人びとを元気づけた。


しかし、テレビの普及により
六区興業街は櫛の歯が抜けるように、
劇場や映画館が消えていった。
最盛期には36館あったが、
昭和40年には26館、
同62年には18館に減り、
現在は浅草演芸ホール・東洋館が
六区の灯を守っている。



―――私が不思議に思うのは、
そんな斜陽と呼ばれる浅草が、
人出が減ることがないこと。
コロナ禍は異常な事例であってもいづれは終息する。
考えるにやはり『浅草の物日』、
365日どこかで何かをやっている。

昨年暮れ、
テレビで「大浅草特集」を放映したが、
浅草に行けば何かがある…そんな期待感が魅力だろう。

ところで御宿『野乃』の塀が、
着物ブームの女性の観光スポットに登場したのは…
一本取られたなあ。

<文・写真 田中けんじ>

ハッハッハッハッ。






六区。

1年前に初めて聞いた時は、
歌舞伎の掛け声のように、
なんとなく、浅草に通じた玄人が使う専門用語の響きがあり、
素人が発するにはおこがましいというか、
恥ずかしいイメージがある言葉でした。

田中教授からのレクチャーを重ねるごとに、
ようやく自分でも、
「六区」と発音するのが不自然じゃなくなりました。

だけど頭の中では、
六区、ではなく、
Rock、ロック…
そんな字面を想起してしまいます。
それだけいろんなものが詰まった浅草の足跡。

なんだか格好いいなぁ、「六区」。

明日は、六区からすしや通りを通って、銀座線に乗っちゃいまして…。


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