下町歴史部

隅田河畔の歴史散歩
<前編>
『石浜から橋場』

田中教授は、
どうやら隅田川に相当な思い入れがあるのかもしれません。
前回の「浅草の水に映る古の町。」に続き、
今回の舞台も隅田川。

だけど、教えてくださるお話は、平安、江戸、そして昭和につながるお話と、
またまた新しいお話がてんこもり。

前回、空から見たこちらの地図(監修は田中教授)を、
隅田川の東岸から眺めてみました。

前回ご紹介した、空から目線で見た隅田川マップ。
隅田川東岸からの目線。

視点とタッチが変わると、
また受けるイメージが変わりますね。



あ、前置きが長くなってはいけません。
さて前編、はじまりはじまり〜。




今日は再び上から見た図、です。



「義経記(ぎけいき)」によると、
源頼朝(1147~1199)が伊豆北条より、相模土肥に至り大庭景親に敗れ、
伊豆真鶴から船で安房勝山に上陸し、
下総一の豪族、千葉常胤(ちば つねたね)などの援助のもと、
近郊の兵力を次第に呼び集め、
やがて「隅田宿(すだしゅく)」の地に攻めのぼってきたのは
治承4年(1180)8月の事である。

ところが、墨田河と呼ばれる大河を前にして立往生となる。
当時の川幅は現在の数倍あり水深も深く、橋を架ける事はできなかった。
頼朝が苦難曲折を経て辿り着いた下総国(しもふさのくに)と武蔵国の境「墨田河」。
三万の軍勢を渡らせ一刻も早く平家を討たねばならぬ。

そこで関東八ヶ国を代表する「大福長者」とうたわれた江戸太郎(重長)に圧力をかけた。
鎌倉に天下を握るは必至の人物と見た重長は、
頼朝に全面的に従うことに同意する。
隅田川西岸を領していた重長は、
石浜・今津(今戸)・浅草などを支配していた。
当時の石浜は武蔵国でも有数の湊(港)であり、
多数の西国交易廻船を差配していた。
そこで西国船や釣り舟など三千隻をそろえ、
浮橋を組み架橋を整えた。
三万の軍勢は無事に対岸に渡河することが出来、
ここに橋場の名が付いたという。 

隅田河畔に滞在した数日間、
頼朝は石浜神社、浅草寺に戦勝祈願をして、
軍勢は重長の協力を得て食料調達など体勢を整える。

「江戸砂子(※)」には、
この地を流れ隅田川にそそぐ細流「思い川」で、
『頼朝公馬を洗れしといふ。』以来、
「駒洗川古名思川」と呼ばれるようになる。
現在流れは明治通りの下で暗渠となっているが、
泪橋交差点近くには区による謂(いわれ)の史跡板が建っている。
鋭気を養った頼朝は西の鎌倉街道に向い、
二ヶ月後、平氏を滅亡させ鎌倉にあって東国を固め、幕府を開くことになる。

戦勝祈願をした石浜神社の地一帯は、
東京湾の湾岸線が奥深く入った地で、
この岸辺は石が多かったので「石浜」と呼んだ。

四百年後、徳川家康は江戸城を建てる際、
城壁の石垣は伊豆石を使ったが、直接積み上げるものではない。
「裏込石(うらごめいし)」と呼ばれる隙間石を必要とする。
その良質な小石が石浜にあることから莫大な量を運んだ。
そのため石浜の景観は一変し、
現在は石浜神社など名称が残るのみである。



ーー江戸時代も後期となる文久元年(1861)、
幕府は石浜神社北側、姫路藩酒井雅楽頭忠績(さかいうたのかみ
ただしげ)抱屋敷跡地に
「天保通宝(てんぽうつうほう)」を鋳造するための「真先銭座」を設置した。
近くにある橋場鋳銭所を移転したものだが、
鋳造枚数は八億九千万枚に及んでいる。

それ以前この地は、
雪見や静寂の地として歌人や絵師、風流人が好んだ「真崎稲荷大明神」があり、
隅田川沿いの名所であった。
広重はその趣きを描き、
吉原豆腐でつくった名物、真先田楽を売る茶屋が
十軒以上もたちならび大いに繁盛した。

真崎稲荷大明神

 
江戸から現代に…
食文化の聖地がここにある。
頼朝が渡河に難儀した隅田宿にあるのが私の好きな店だ。
頼朝伝説と思わせるグルメ話だが、
白鬚橋東詰にある「洋食カタヤマ」
地元だけでなく、浅草の食いしん坊も通う人気店。
多少の順待ちはご愛嬌。
ステーキで特許を取った「ダビンチョカット」という
肉の旨みを更に引き出す手法が人気の“ヒミツ”。
ちなみに私の定番は〈オムライステーキ〉。

永井荷風になりきり、食べ歩きを楽しむ田中教授。ダビンチョカットのお店『カタヤマ』さんにて、オーナー・カタヤマ氏と。


対岸、真先田楽が名物だった「真崎稲荷大明神」。
現在その地、石浜神社境内には石浜茶屋が趣きを見せている。

「頼朝伝説」
「石浜湊」
「真先銭座」

千年の歴史を偲びながらの一服には味わいがある。
どこぞの観光地に見られる矢鱈の由来板などどこ吹く風。
それらを知らぬ若者が土手のジョギングに汗を流す姿に平和を感じる。
そんな激動の歴史をみつめているのが、
千年一日の流れ、悠久隅田川である。

ーー隅田河畔石浜歴史散歩初日終了。
次回はいまから75年前、
日本一の天才歌姫がこの地から翔び立った新伝説!
知られざる実話とは……

※編集部注:「江戸砂子」(えどすなご)は、江戸時代中期に著された江戸の研究誌。


<文・写真・イラスト・資料 田中けんじ>





隅田川の幅は、いまの数倍!?
そこに船をつなげて橋にした!?

どんなに困難なことでも、
いまあるもので工夫をして、
解決に導く…。

源頼朝さんの魂は、ドーミーインにも受け継がれている…
頼朝さん!DOMINISTAと呼ばせてください!

…なんちゃって(でも本心)。


DOMINISTAって考えただけで、
なぜか人生で初めて歴史上の人物を“さん”付けしてしまいました…

田中教授が大好物のカタヤマ『オムライステーキ』!
これがウワサの「ダビンチョカット」。




著者名:

DOMINISTYLEの活動を楽しんでいただくために、様々な活動を行っています。サウナビギナーで、最近、ウィスキングに興味津々。