下町歴史部

浅草の水に映る古の町。
<後編>
『橋場と今戸』


カフェ・バッハで2杯目のコーヒーとして
田中教授が選んだのは、“翡翠”(ひすい)。

「このコーヒーはね、
中国のレアアース採掘後に残された土地を保護するためにね、
ここ、カフェ・バッハの店主も参加した、
中国産のコーヒープロジェクトで生まれた豆なんですよ」

中煎りで、フルーティな香りを愉しみつつ、
隅田川の水辺に映る町へ思いも寄せつつ…。

昨日の<前編>はこちら。






『明治の高級別荘地(橋場、今戸)河畔を歩く。』



浅草寺の北側が奥浅草なら、
隅田川が流れる東側には
橋場・今戸と呼ばれる水辺の町がある。
口の悪い連中に言わせると
「台東区のチベット」さ。
と、けんもほろろだが、どっこい! 

この隅田川河畔の地(桜橋から白鬚橋(しらひげばし))は、
明治から大正にかけて、功成り名遂げた人々の住む
超高級の住宅地・別荘地であった。

かつてこの地が憧れの地であり得たのは、
清き流れの向いに築波、
対岸には水神、白鬚、牛島の森。
葦が茂る野趣豊かな
芝居の舞台か名所江戸百景の世界である。

大川とも呼ばれる隅田川の流れに魅せられ、
ここに住んだ名士たちに思いをはせ、
歴史の旅をしてみたい。

白鬚橋西詰の右側に「明治天皇行幸対鷗荘遺蹟」と刻まれた
二メートル余りの石柱記念碑がある。
明治新政府の太政大臣・三條 實美(さねとみ)が
橋場町(現橋場二)白鬚橋西詰に対鷗荘という別邸をかまえたのは、
維新成って間もない明治六年(1873)の春である。


新政府最高の地位にあった三條が、
あえてこの地を別邸に選んだということは、
いかに橋場がすばらしい場所であったかの証明になるであろう。
この対鷗荘に、重臣の見舞いということで、
明治天皇が行幸になったのは、明治六年十二月のことであった。

臨幸のコースは両国までは陸路をとり、
そのあとは「春風丸」に乗って大川を上り、
直接橋場「対鷗荘」に着岸上陸。

見舞の言葉は、
「汝實美病に罹る。朕甚夕之を憂フ…」と気づかった。
三條は起上り平伏し、その思情に感泣し、
ただただ忠誠を誓うのみであった。

……お見舞が奇跡を起した。

翌日、三條公が早々に政治の場へ出仕してきたから、
木戸孝充はしてやったり!
かつぎ出しは大成功となり、
以後明治十八年に内閣制が布かれるまで太政大臣を務め、
近代国家の基盤づくりに尽した。

では、あの日のお見舞は何んだったのか?
歴史は裏話がおもしろい。



江戸時代、有馬家は久留米二十一万石の大名であった。
明治になって華族に列し、公・候・伯・子・男の
五爵の中間に位置する伯爵を授けられた名門である。
有馬頼寧(よりやす)は、明治十七年に
伯爵有馬頼萬の長男として日本橋に生まれ、
第一次近衛内閣(1937)で農林大臣を務めた政治家である。
有馬邸は隅田川に面し自家用の船、お抱えの船頭もいて
「有馬河岸」と呼ばれた。上流階級の人ながら
一般社会の労働者、農民、被差別部落出身者の人々と触れ合う姿は、
「華冑界(かちゅうかい)では稀に見る人」として世間の注目を集めた。

戦後に日本中央競馬会第二代理事長となって
ファン投票によるドリームレースを企画し、
有馬記念の名で行われるようになる。

三男頼義(よりちか)は、
第三十一回直木賞受賞作家の有馬頼義氏である。
受賞作品は「終身未決囚」だったが、
勝新太郎の当り役「兵隊やくざ」の映画の原作者だったといえば、
分かりが早いかと思う。

向島の堤。
月明りを楽しむかに女性が悠然と歩いている。
実はこの人、安藤広重が描く江戸名所百景「真乳山山谷堀夜景」に登場する、
広重馴染の芸者だが『有名楼(ゆうめいろう)』女将として名を馳せている。

芸者として培った所作は並でなく、
目くばり気くばり、洒落や冗談の一句半句、
男心を透かす粋な姿に多くの贔屓がつき、
それ以上に大店や豪商が目を見張ったのが、
天性とも思える経営手腕だった。
店は評判を呼び、
文人墨客、上流階級の社交場になって行く。

有明楼。

幕臣としての要職にありながら、
維新後は漢詩人、随筆家、
やがては朝野新聞社社長となる「成島柳北(なるしま りゅうほく)」は、
著者「柳橋新誌(りゅうきょうしんし)」に

<傾国の色絶世の技有るに非ず>

つまりとびきりの美人ではないが、
人間的魅力と有名楼の名は都下に鳴り響き、
俠気才気は並外れて、
女性として彼女の上を行く人を聞いたことがない。




――二〇一八年九月、
「侍乳山聖天本龍院」で開催された千四百年を超える霊跡の歴史、
秘蔵の絵で辿る浮世絵展を鑑賞した。
興味深かったのが、
安藤広重が雪月花を抒情的に描いた浮世絵十六点。
真乳山を中心に今戸橋、有名楼の構図が実に九点。
私には、心知れた有名楼の女将『お菊』への想いが伝わってくる。
芸者から江戸有数の料亭に育て上げた生きざまを
敬意を込めて描いている。
風景画の大家であり、
歌麿呂や北斎のような美人画は手を出さなかった。
しかし有名楼とお菊は別物。
さりげなく題材に溶け込ませている。
魅力ある女性は、心の奥に描き語られる。




――私の工房近くに、
提灯製造印の高山商店がある。
二〇一七年にシャッター絵の依頼があり、
描いたのがお菊さんと広重の出会いの場。
広重は火消し同心でもあり、
その姿で待乳山聖天を望む隅田堤を描いた。
夜はライトアップで幻想的に……

興味ある方は、
駒形中学斜め前(北上野二-二〇)へ…



<文・写真・イラスト・資料 田中けんじ>




昨日の山谷堀から隅田川沿いの道は、
田中教授の毎日の散歩みち。
その最後に、
160年の時を経て、
「会えなかった人と人」をシャッター絵の世界で引き合わせました。

田中教授の人生は、
時空を超えた旅(Tour)なのかもしれません。

“THE GLOBAL TOURIST RELATIONSHIP”

田中教授!
僭越ながら、DOMINISTAと呼ばせていただきます!

ハッハッハッ。




著者名:

DOMINISTYLEの活動を楽しんでいただくために、様々な活動を行っています。サウナビギナーで、最近、ウィスキングに興味津々。