下町歴史部

地名がつなぐ今昔物語
<前編>
『猿若町』



浅草各地の地名をネットで調べるだけで、
その地の歴史がいろいろ出てきます。
そして、時を経た今でも、
その地名が持つ力というか縁というか、
現代につながっていると思えるなんて…

やっぱりここ浅草は、
新しい発見がある町です。

猿若町(さるわかちょう)。

江戸時代初期の歌舞伎役者、猿若 勘三郎さんの名に由来するそうで、
この方、なんと初代 中村勘三郎。

江戸三座のひとつにちなんだ地名に、
さてどんな歴史散歩があるのやら…




――天保十二年(1841)、
水野忠邦が進めた、「天保の改革」勤倹を旨とし、
風俗を矯正し、幕政再建に努め、
風俗取り締りの一環として、
江戸城近くの芝居小屋、役者を遠ざけて、
当時は江戸郊外だった浅草猿若町に、強制移転を命じた。
本当は取り潰しが狙いだったが、
北町奉行、遠山左衛門尉影元(さえもんのじょうかげもと)の
反対で妥協したと言われる。

庶民の娯楽を奪うことは、人心の安定に役立たない。
ご存知「遠山の金さん」、“してやったり”。

以後、明治初年に至る30年間、
江戸の一大娯楽の場、
「猿若ブロードウェイ」が誕生したのである。

総面積1万8000坪。
芝居小屋、芝居茶屋、役者や芝居関係者の住居が造られた。
その後忠邦は、
強権的な政治手法が大名などの反発を招き失脚する。



――繁栄を謳歌した猿若三座の地であったが
現在、猿若町に芝居の面影を残すのは、
歌舞伎、芝居を扱う藤浪小道具である。
全国の演劇や歌舞伎の小道具は、
この店以外では整えられないし、
無形文化財、人間国宝の人もいる。
猿若の歴史文化を代表する店である。

明治維新、市村座の楽屋係だった、
初代 藤浪與兵衛(ふじなみ よへえ)が、
廃刀令で出された刀剣類などを買い集め、
職人の育成に力を注ぎ乍ら、
小道具専用のレンタル業を始め今日の礎を築いた。
越ケ谷に生れ、浅草にきて市村座で働くが、
商才に勝れ、
市村座・中村座・守田座の客用座布団賃貸の株を買った。

やがて明治になり世の中は一変する。
諸大名は没落し、食わんがために、
おびただしい刀剣・甲冑・蒔絵物・浮世絵・
扇・古煙管(きせる)・骨董品が山のように市場に出てきた。
今ならお宝鑑定団も驚くような、重文・国宝級の品々である。
目敏い仲買人は二束三文で買い叩き
ジャポニズムブームの欧米に向け、海を渡らせる。
與兵衛は、
歌舞伎・芝居に必要な品のみを買い求め、準備を整えた。

明治十八年、東京の劇場の小道具を
一手に扱う専門店になったのである。

現在の藤浪小道具さん。


――昭和20年3月の東京大空襲、
命を賭けた闘いが展開された。

B29が爆弾を落とし、浅草が焼野原になる。
猿若町九百坪の本社、倉庫は全焼したが、
重文級の品が詰った土蔵を守るべく、
三代、四代與兵衛・家族・従業員が蔵に張りついた。
必死に泥をこね、土蔵の扉の隙間という隙間を、
蟻一匹入れない目張りでくまなく塞いだ。

降りそそぐ焼夷弾(しょういだん)、
火の粉舞い地をはう焔、
土壇場の執念が「十八番物」をはじめとする、
歌舞伎狂言の道具を守り、今日の土台を残したのである。

明治の猿若町。


――10年前、
『奥山おまいりまち参道』に、
シャッター歌舞伎絵を24枚制作することになった。
藤浪小道具を訪れ、江戸歌舞伎や芝居に造詣の深い、
椙山(きりやま)宏治氏に解説と資料提供をお願いした。
すると
「猿若と奥山は江戸の昔からの庭つづきの間柄、
必要な図柄で描いて下さい。」

懐の深さに胸が熱くなる。
図書資料室は、眼から鱗(うろこ)のお宝図版の山。
広い館内は多種多様の道具が所狭しと整頓され、
迷路のように入り組んでいる。
気合を入れた24枚、
今も藤浪さんには、足を向けて寝られないのである。


<文・イラスト・写真 田中けんじ>


田中教授の原稿にもよく登場する淺草「喫茶ブラジル」さん。チキンバスケットが絶品です。






猿若町。

ドーミーイン・global cabin浅草がある花川戸から
歩いてほんの数分。
やはりここは江戸文化の町でした。
浅草に各地から人が訪れるのは、
いにしえの雰囲気を無意識に感じることができるからなのかな…

シャッター歌舞伎絵24枚の絵師、田中教授。
ドーミーインにも印した
猿若からつながる歴史の散歩道。

明日、後編へ。

ドーミーイン・global cabin浅草のシャッター絵も、田中教授作。




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