下町歴史部

なんだKANDAのお散歩マップ
<後編>
『神田上水』

神田明神を出発して、秋葉原、神田をぶらぶら、
《神田薮蕎麦》を堪能した田中教授、
今日も神田のつづきです。

なんだKANDAのお散歩マップ<前編>
『アキバから連雀町』がまだの方はこちらから。







歴史が織り成す、須田町界隈。

神田は江戸最初の町として、
神田明神や神田上水が通された。
須田交差点はかつて都電六系統が走り、
中央線始発万世橋駅など、
明治・大正・昭和を通じて都内屈指の名所に。

――江戸後期、弘化三年(1846)須田町の角に
水菓子を商う老舗《万惣(まんそう)》が開業。
維新に入り、明治天皇が腎臓を悪くされた時、
村井弦斎創案の西瓜を濃縮した「西瓜糖」を上納したところ
回復につながり名声が高まった。
明治三八年、国内で初めてマスクメロンを販売。
昭和二年には先進的なフルーツパーラーを開店。
二階で焼くホットケーキは日本一と云われた。
私や家族は長年通ったものだが
10年ほど前にまさか?の閉店!!

しかし、不思議な縁は更に続く。
その跡地に建設されたのが《ドーミーインPREMIUM 神田》とあっては、
二度ビックリ!



――江戸庶民の飲料水・神田上水は、
徳川幕府が力を入れた現代の水道の始祖である。
徳川家康が江戸入府にあたり、
三河から大勢の家来、武士、町人たちを連れてくることになったが、
施政上において考慮すべきは飲料水の確保であった。

太田道灌が江戸築城の頃(長禄元年・1457)は
桜田門、日比谷、九段下あたりは入江や海であり、
関西、境から大型商船がやってくる貿易港として栄えていた。
そんな地層ゆえ、井戸を掘っても塩分が多く
良水を得ることは困難であった。

――大久保忠行(藤五郎)は、三河国で少年の頃から家康に仕え、
知行三百石を賜り才知を見込まれていた。
三河一揆の戦闘で功を上げたが、膝頭を鉄砲で射たれ非戦闘員になる。
日頃から菓子づくりを得意にしていたので、
いろいろな菓子をつくり家康公に献上すると喜ばれ御用菓子司となった。
戦国時代故、暗殺を警戒したとも云われる。

後に二代将軍となる秀忠は、
江戸近郊・井之頭に満々たる湧水池があるのを知り、
この清泉を江戸市中に引き込むことを計画した。

器量ある忠行に、
江戸の飲料水確保の大事業に転じるよう命じたのである。
大久保忠行はただちに江戸に向い、
調査を整えて「井之頭」を水源に開削工事に着手。
田畝の間を縫って四里半(18㎞)て小石川関口(堰)に至った。

神田川は木樋(もくとい、昔の水道管)を使って越え、
江戸城ならびに市中の引水に成功した。
これが『神田上水』であり、江戸の飲料水は確保された。
家康・秀忠は大いに喜び、
望みあらば得させると功労の御意を示した。
だが忠行に望みはなく、菓子職人に戻る旨を申し出た。

戦闘武士・菓子職人・上水道開削と、
粉骨砕身の忠義に感服した家康は、
忠行に「主水」の名を遣し、
“もんど”では濁ると厭うて、
大久保主水(もんと)と称した。
福田村(現・鍛治町一丁目)に敷地住居、
名馬「山越」を与え《城中内乗馬御免》を許した。
不自由な足を気遣ったのである。



――2012年、神田鍛治町会の役員さんから
シャッターに描く歴史画の依頼があった。

「町内の一角に江戸上水道の恩人『大久保主水』さんの屋敷がありました。
 邸内には銘水の井戸もあり、《主水井(もんとのゐ)》と呼ばれていました。
 江戸の誇りでもある神田上水の歴史を知って頂くために、
 絵で表現してくれませんか。」

◇天正十八年(1590)の『神田上水』誕生から四三〇年を経て、
 水道始祖の再来に腕が振い立った。
 完成後、銘板に謂(いわれ)が記され、
 神田観光めぐりのコースに加えられた。



<文・イラスト・写真 田中けんじ>






いかがでしたか。
『なんだKANDAのお散歩マップ』。

ドーミーインPREMIUM神田周辺にあった歴史の記憶は、
私達も知らないことばかりでした。

神田明神、
奇跡のトライアングル、
日本初の本格上水道…

下町歴史部の「下」は、
現代の姿を1枚も2枚もめくったその「下側」を知る旅なのかもしれません。

さて、田中教授。
次はどの町へ?

「せっかく神田へ来たんだから、神保町の古本町へ行ってきます。
 表には出ていない貴重が資料がイロイロあるんですよ。」



チリンチリン〜




御茶ノ水駅から約8分。「東京都水道歴史館」では、復元された神田上水や、江戸から現代の上水を知ることができます。
https://www.suidorekishi.jp/




著者名:

DOMINISTYLEの活動を楽しんでいただくために、様々な活動を行っています。サウナビギナーで、最近、ウィスキングに興味津々。