街絵師という田中けんじ教授。
絵の匠さは言うまでもありませんが、
屋号である「レタスト」に込めたレタリングの想いは健在。
和紙に紡ぎ出されたのは、なんと
0.4mmのボールペンによる手書きの原稿なのに、
まるで書体のような美しさ…。
まさに文字もまた絵なのかもしれません。
今日の田中教授のお話は、
淺草では日常にある歌舞伎がつなぐ、ちょっと不思議なご縁。
江戸と現代を行きつ戻りつ、
田中教授のファンタジーをお楽しみくださいませ。
チョン、チョン、チョンチョンチョン…
嘘と真実を突き混ぜて、真実以上の真実をつくり出す。
芝居の世界は大らかで不思議な魅力に溢れています。
片や歌舞伎の世界は、更に嘘のつき方が大袈裟で、
バカバカしいほど派手で、大胆不敵。
それでいて斬新な心理描写が内面を突き詰めて、
観客はいつしか主人公に成り済まし、醍醐味に酔しれる……。
◇
ーー江戸歌舞伎の名称で、最高峰とされる『市川団十郎』。
これまで十二代を数えます。
『助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)』は正徳3年(1713)に初演、
今や300年を超える超ロングセラーの代々演目。
助六劇はもともと大阪で起こった心中事件をもとにして、
二代目団十郎が江戸好みにアレンジして人気を博しました。
鎌倉時代の武士・曽我五郎が親の敵を討つために、
侠客の助六に身をやつして、
吉原三浦屋の遊女・揚巻(あげまき)のもとに通い、
やってくる誘客に喧嘩を売って刀を抜かせ、
やがて揚巻に横恋慕する意休という武士が源氏の宝刀(友切丸)を盗んだ敵と分かり、
仇を討って取り戻す。
吉原三浦屋の揚巻は実在した美貌の花魁(おいらん)。
ところが肝心の助六の素性がよくわかりません…。
花川戸の侠客・戸沢助六との説もありますが、
作者も不詳、代々の助六劇にして後年の付会とも考えられる
摩訶不思議な夢物語なのです…。
◆◆
時は正徳、江戸一番の侠客・花川戸の住人「助六」は、
川面をわたる心地良い風を受けながらほろ酔い気分…
河畔の船着き場でうたた寝をしていた。
そんな夢枕に不思議な光景が浮かび上がる。
対岸水戸様のお屋敷の向こうから
白く輝く龍が現れて天高く昇って行くではないか…
はっと目覚めた助六は
「こりゃ天下太平の吉兆にちげぇねえ」と勇んで町の人の話した。
だが新吉原、三浦屋の花魁「揚巻」だけは違っていた。
「あっしは、廓(くるわ)から
ひとときたりとも出ることがかなわぬ身でありんす。
お前と一緒に堤の桜を見ることもかなわぬが、
天に昇る龍ならば、
同じ光景を見ることができるわいなあ…」
色気と品格、最高位の花魁でありながら、
「助六さんゆえ恋路の闇」。
何ごとも信じて疑わない、
今で云うゴージャスなセレブ系美女の代表である。
片や助六は黒縮緬(くろちりめん)の着付けに
真っ赤な下帯江戸紫の鉢巻に番傘のイケメンストリート系。
ノリノリ同氏のハートが重なった…。
◇
同じ頃、
日本橋浜町の畳屋の倅「三公」は、
家業を手伝わず、好きな絵に没頭していた。
後継ぎは真っ平御免と、
早々に浮世絵師「北尾重政」に弟子入りする。
めきめきと頭角を現し、
15歳で今でいう大衆紙「黄表紙」の挿絵を描き、
17歳で北尾政美と名乗り、
庶民風俗を描く人気絵師になった。
やがて文壇仲間入りし、山谷「八百善」では、
太田南敏・亀田鵬斎・酒井抱一らと交流を持つことに。
そんな折、
津山藩松平家から声がかかり、
卓越した画量にお抱え絵師に抜擢。
これには浮世絵仲間の葛飾北斎や安藤広重も、
畳屋の倅が大名絵師にのし上がったと驚くばかり。
これを機に、画号を「鍬形恵斎紹真(くわがたけいさいつぐさね)」と改め、
そして誰も眼にしたことのない江戸の俯瞰図、
隅田川東岸業平の地から二千尺の天空に舞い上がり、
鳥の眼となって「江戸一目図屏風(えどひとめずびょうぶ)」を描いた…
◆◆
平成12年にスカイツリーが完成した時、
建築主の東武鉄道は、
200年以上も前に、同様と思われる地点から描かれた
鍬形恵斎の江戸一目図屏風の構図に
言葉がなかったといいます。
そこで岡山県津山郷土博物館の協力を得て、
第一展望台に複製図(横3.5m ・縦1.7m)を設置して、
訪れた観光客に、
江戸の街並と現代の対比を楽しんで貰えるようにしたのだそうです。
◆◆◆
時は移り、平成弥生の大川端、
堤の桜がこの世の春を謳歌する。
生まれ変わった助六と揚巻は、
河畔のテラスでコーヒータイム。
「お前さんを信じて良かったよ。
晴れて夫婦になれて、
夢に現れた白龍はスカイツリーに姿を変えて、
天を仰ぐんだもの…」
「左様であるな。
ならば六三四メートルの天空から、
白龍気分で武蔵の国を愉しむとしよう」
“やぁ、絶景かな、絶景かな。”
正面に霊峰富士とあらば、
眼下に悠久隅田川、
中央に控えしが千三百年、江戸最古の浅草寺。
天下に誇る絶景である。
雷門から参拝の善男善女、
仲見世の賑わいも往時と変わらぬて、
「お前さん、遠メガネにて
花川戸河畔をズームアップとな、
おや、妙な絵師が
二人を描くんでありんす」
「あれは田中辰斎と申す絵師でな、
花川戸ドーミーインglobal cabin浅草のシャッターに
“助六・揚巻”二人の道行を描いておる」
記念に“パチリ!”
今や浅草の観光名所である。
◆◆◆
令和元年7月、
浅草寺西側に天然温泉 凌雲の湯
『御宿 野乃 浅草』が誕生しました。
DOMINISTYLEのかあちゃんいんこ、
自慢の施設と浅草観光を楽しもうと、
子供の夏休みを兼ねて親子で一泊旅行。
下町グルメを堪能し、
念願の人力車で浅草見物へレッツゴー!
「車夫さん。
とっておきのポイント案内をお願いします!」
“アラヨッ”っと、
雷門から吾妻橋〜隅田堤をスイースイー。
「ここが助六夢通り。
助六と揚巻の前で、
記念写真を撮りましょう!」
エッ!!??と、
かあちゃんいんこも驚きの展開に。
なんと頼みもしないのに、ドーミーイン花川戸の
“助六シャッター絵”に案内されたのです。
出来すぎの偶然に、
“イヨッ!車夫さん日本一!”
記念すべき1枚になりました。
◆◆
ーー2010年3月、
台東区は地元から申請のあった花川戸1、2丁目の
国道6号江戸通りと隅田公園の間に並行する通りを
『助六夢通り』の愛称で認可しました。
ドーミーインglobal cbain浅草のシャッター絵、
助六と揚巻が一役買ったという次第でございました。
<文・イラスト 田中けんじ>
※津山郷土博物館公式ホームページより
『江戸一目図屏風』も高精細画像は圧巻です。
街絵師という田中けんじ教授。
絵の匠さは言うまでもありませんが、
屋号である「レタスト」に込めたレタリングの想いは健在。
和紙に紡ぎ出されたのは、なんと
0.4mmのボールペンによる手書きの原稿なのに、
まるで書体のような美しさ…。
まさに文字もまた絵なのかもしれません。
今日の田中教授のお話は、
淺草では日常にある歌舞伎がつなぐ、ちょっと不思議なご縁。
江戸と現代を行きつ戻りつ、
田中教授のファンタジーをお楽しみくださいませ。
チョン、チョン、チョンチョンチョン…
嘘と真実を突き混ぜて、真実以上の真実をつくり出す。
芝居の世界は大らかで不思議な魅力に溢れています。
片や歌舞伎の世界は、更に嘘のつき方が大袈裟で、
バカバカしいほど派手で、大胆不敵。
それでいて斬新な心理描写が内面を突き詰めて、
観客はいつしか主人公に成り済まし、醍醐味に酔しれる……。
◇
ーー江戸歌舞伎の名称で、最高峰とされる『市川団十郎』。
これまで十二代を数えます。
『助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)』は正徳3年(1713)に初演、
今や300年を超える超ロングセラーの代々演目。
助六劇はもともと大阪で起こった心中事件をもとにして、
二代目団十郎が江戸好みにアレンジして人気を博しました。
鎌倉時代の武士・曽我五郎が親の敵を討つために、
侠客の助六に身をやつして、
吉原三浦屋の遊女・揚巻(あげまき)のもとに通い、
やってくる誘客に喧嘩を売って刀を抜かせ、
やがて揚巻に横恋慕する意休という武士が源氏の宝刀(友切丸)を盗んだ敵と分かり、
仇を討って取り戻す。
吉原三浦屋の揚巻は実在した美貌の花魁(おいらん)。
ところが肝心の助六の素性がよくわかりません…。
花川戸の侠客・戸沢助六との説もありますが、
作者も不詳、代々の助六劇にして後年の付会とも考えられる
摩訶不思議な夢物語なのです…。
◆◆
時は正徳、江戸一番の侠客・花川戸の住人「助六」は、
川面をわたる心地良い風を受けながらほろ酔い気分…
河畔の船着き場でうたた寝をしていた。
そんな夢枕に不思議な光景が浮かび上がる。
対岸水戸様のお屋敷の向こうから
白く輝く龍が現れて天高く昇って行くではないか…
はっと目覚めた助六は
「こりゃ天下太平の吉兆にちげぇねえ」と勇んで町の人の話した。
だが新吉原、三浦屋の花魁「揚巻」だけは違っていた。
「あっしは、廓(くるわ)から
ひとときたりとも出ることがかなわぬ身でありんす。
お前と一緒に堤の桜を見ることもかなわぬが、
天に昇る龍ならば、
同じ光景を見ることができるわいなあ…」
色気と品格、最高位の花魁でありながら、
「助六さんゆえ恋路の闇」。
何ごとも信じて疑わない、
今で云うゴージャスなセレブ系美女の代表である。
片や助六は黒縮緬(くろちりめん)の着付けに
真っ赤な下帯江戸紫の鉢巻に番傘のイケメンストリート系。
ノリノリ同氏のハートが重なった…。
◇
同じ頃、
日本橋浜町の畳屋の倅「三公」は、
家業を手伝わず、好きな絵に没頭していた。
後継ぎは真っ平御免と、
早々に浮世絵師「北尾重政」に弟子入りする。
めきめきと頭角を現し、
15歳で今でいう大衆紙「黄表紙」の挿絵を描き、
17歳で北尾政美と名乗り、
庶民風俗を描く人気絵師になった。
やがて文壇仲間入りし、山谷「八百善」では、
太田南敏・亀田鵬斎・酒井抱一らと交流を持つことに。
そんな折、
津山藩松平家から声がかかり、
卓越した画量にお抱え絵師に抜擢。
これには浮世絵仲間の葛飾北斎や安藤広重も、
畳屋の倅が大名絵師にのし上がったと驚くばかり。
これを機に、画号を「鍬形恵斎紹真(くわがたけいさいつぐさね)」と改め、
そして誰も眼にしたことのない江戸の俯瞰図、
隅田川東岸業平の地から二千尺の天空に舞い上がり、
鳥の眼となって「江戸一目図屏風(えどひとめずびょうぶ)」を描いた…
◆◆
平成12年にスカイツリーが完成した時、
建築主の東武鉄道は、
200年以上も前に、同様と思われる地点から描かれた
鍬形恵斎の江戸一目図屏風の構図に
言葉がなかったといいます。
そこで岡山県津山郷土博物館の協力を得て、
第一展望台に複製図(横3.5m ・縦1.7m)を設置して、
訪れた観光客に、
江戸の街並と現代の対比を楽しんで貰えるようにしたのだそうです。
◆◆◆
時は移り、平成弥生の大川端、
堤の桜がこの世の春を謳歌する。
生まれ変わった助六と揚巻は、
河畔のテラスでコーヒータイム。
「お前さんを信じて良かったよ。
晴れて夫婦になれて、
夢に現れた白龍はスカイツリーに姿を変えて、
天を仰ぐんだもの…」
「左様であるな。
ならば六三四メートルの天空から、
白龍気分で武蔵の国を愉しむとしよう」
“やぁ、絶景かな、絶景かな。”
正面に霊峰富士とあらば、
眼下に悠久隅田川、
中央に控えしが千三百年、江戸最古の浅草寺。
天下に誇る絶景である。
雷門から参拝の善男善女、
仲見世の賑わいも往時と変わらぬて、
「お前さん、遠メガネにて
花川戸河畔をズームアップとな、
おや、妙な絵師が
二人を描くんでありんす」
「あれは田中辰斎と申す絵師でな、
花川戸ドーミーインglobal cabin浅草のシャッターに
“助六・揚巻”二人の道行を描いておる」
記念に“パチリ!”
今や浅草の観光名所である。
◆◆◆
令和元年7月、
浅草寺西側に天然温泉 凌雲の湯
『御宿 野乃 浅草』が誕生しました。
DOMINISTYLEのかあちゃんいんこ、
自慢の施設と浅草観光を楽しもうと、
子供の夏休みを兼ねて親子で一泊旅行。
下町グルメを堪能し、
念願の人力車で浅草見物へレッツゴー!
「車夫さん。
とっておきのポイント案内をお願いします!」
“アラヨッ”っと、
雷門から吾妻橋〜隅田堤をスイースイー。
「ここが助六夢通り。
助六と揚巻の前で、
記念写真を撮りましょう!」
エッ!!??と、
かあちゃんいんこも驚きの展開に。
なんと頼みもしないのに、ドーミーイン花川戸の
“助六シャッター絵”に案内されたのです。
出来すぎの偶然に、
“イヨッ!車夫さん日本一!”
記念すべき1枚になりました。
◆◆
ーー2010年3月、
台東区は地元から申請のあった花川戸1、2丁目の
国道6号江戸通りと隅田公園の間に並行する通りを
『助六夢通り』の愛称で認可しました。
ドーミーインglobal cbain浅草のシャッター絵、
助六と揚巻が一役買ったという次第でございました。
<文・イラスト 田中けんじ>
※津山郷土博物館公式ホームページより
『江戸一目図屏風』も高精細画像は圧巻です。
DOMINISTYLEの活動を楽しんでいただくために、様々な活動を行っています。サウナビギナーで、最近、ウィスキングに興味津々。