下町歴史部

上野で中締めの下町歴史部。
<前編>
『上野の山と森』


昨年3月に幕が上がりました「下町歴史部」。
シャッター絵師・田中教授による
徒然の街旅日記を1年間に渡ってお届けしてきました。
そんな現在・過去を行き来しながらの旅も、
いよいよ中締め。

世に中はあっても、上も下も関係なく、
ぜ〜んぶひっくるめて笑顔でいたいなぁ…

では、行ってらっしゃ〜い。




江戸の総鎮守、
神田明神のお膝元『共立メンテナンス』を中心に、
根岸・日暮里・谷中・神田の街・秋葉原・日本橋・銀座・築地、
隅田川を溯っては今戸・橋場・石浜・南千住を南下して
猿若町、佳境に入れば奥山・浅草で、一年間。
歴史散歩とグルメ旅、最終回は上野の山を区切りとして連載をまとめたい。


〜文化発信基地・上野の山〜

上野の山での彰義隊の戦争は一日で結着がついた。
官軍が勝利をおさめ、
256年に及んだ徳川幕府の支配は
事実上終止符がうたれ、王政が復活した。
江戸が東京になり、世は明治と改元され、
かつての江戸城は皇居となり、東京は日本の首都となる。

つまり、簡単に言えば、
『東京』とは江戸城から将軍を追い出し、
そこに京都から連れてきた天皇を入れてつくった首都である。
明治維新を内戦ととらえてみるなら、
遠い土地からの軍隊に征服され明け渡した土地《江戸東京》。

そこで新政府は、西欧の諸制度を積極的に取り入れた。
風俗、文化の面でも同様だった。
世は文明開化の時代の到来である。
チョンマゲからザン切りへと、
人々の日常生活も大きく変った。


――江戸時代、上野の山は寛永寺の境内であった。
徳川将軍の菩提所があり、
皇室から降下した住職が就任する別格のお寺であった。
しかし彰義隊の戦争により、堂宇の殆どが焼失してしまう。
荒野と化した上野の山は病院建設用地として着工寸前に、
オランダの軍医A・Fボードワン博士の政府への進言により、
「カカル名勝ノ地ハ公園地トシテ大衆ニ解放スベシ」と
工事を取り止めさせ、わが国公園の第一号となった。


“ 百聞は一見に如かず ”


ウィーンで開かれた万国博覧会に刺激され、
上野の山で国内は勿論、諸外国の物産を展示する
「内国勧業博覧会」が開催された。
工芸の進歩を助け物産貿易を開くことが目的であった。
 
明治10年に第一回、3万坪の会場に8万余の出品点数、
入場者は45万人と大成功だった。
第二回は更に規模が大きくなり、
園内に日本で初めての電車が走るなど好評を博し、
入場者は102万人。
博覧会の建物は、博物館や美術館に利用された。
ともあれ上野では昭和の初めころまで3回が開催され、
空前の博覧会ラッシュが続いたのである。

 
〜芸術の森・上野〜

江戸時代に将軍縁(ゆかり)の寛永寺と東照宮のあった上野の森は、
明治維新となって明治9年(1876)に公園化が推進され、
芸術の杜へと変貌をとげた。
公園用地だけでなく文部省用地も兼ねていたため、
花見など行楽と教養が混在することになる。
歴史・美術・自然科学など、
学問の殿堂である帝室博物館(現東京博物館)の開設のほか、
西洋の音楽と美術を教える東京音楽学校や
東京美術学校(東京芸術大学の前身)が
明治20年(1887)に上野公園内に創設された。
そうした欧化政策に対し、かたわらでは、
当時貴族の娯楽としても親しまれていた競馬が不忍池畔で行われ、
動物園は子供たちで賑った。


――大正12年の関東大震災、
上野の山は大きな被害を受け、
更に23年後の大空襲は致命的であった。
復旧にはかなりの年月を必要とした。

近年はル・コルビジェによる国立西洋美術館が
世界文化遺産に登録された。
花見の季節には桜のトンネルを抜けて、
博物館・美術館めぐりと、
上野は国内屈指の文化の杜として発展している。

<文 田中けんじ>




明日の後編へ続く。


著者名:

スタッフみんなの便利屋さんです。DOMINISTYLEの活動を楽しんでいただくために、時にはブログ、たまに部活、あるいは商品開発でお会いいたしましょう。