下町歴史部

深い浅草。
<前編>
『解体新書とコツ通り』


「食は生命の源なり」

これは、すべてのドーミーインのレストランに掲げられている言葉です。
私達の身体は、すべて食べたものでできている。
お客様の朝食も、その気持でご提供しよう…

さて、ここ下町歴史部に置き換えてみたら…

「浅草は田中教授の源なり」

どんな時代のことでも、
浅草のことなら自分の人生のように語ってしまう田中教授
ほんとに、身体中、いや人生そのものが浅草でできているんだと思います。

今日もやっぱり浅草ばなし。
だけど、ちょっとコワいところをご紹介します。






日本橋から日光へ向う日光街道(国道4号線)、
江戸時代には「日光道中」と呼ばれていた。
浅草寄りを「浅草繩手」と呼び、
浅草見附(浅草橋)から泪橋間を目指していた。
繩手とは長丁場の意である。
今回の歴史散歩は、泪橋(なみだばし)の北を千住大橋に至る
小塚原繩手(俗称・コツ通り)を歩いてみたい。

―――台東区と荒川区の境にある「泪橋」は、
かつて源頼朝伝説(治承四年、1180)の駒洗川(思い川)の流れがあり、
1968年に連載された、高森朝雄(梶原一騎)原作・ちばてつや画の「あしたのジョー」の舞台でもある。
作中、段平がジョーに
「この橋はな、人呼んで “ なみだ橋 ” という。
 人生に敗れ、生活に疲れ果てて流れてきた人間たちが、
 なみだで渡る悲しい橋だからよ、
 二人で歯を食いしばって、なみだ橋を逆に渡るんだ。」

2004年10月9日付の東京新聞にも、泪橋。


ところが歴史を遡ること280年前の寛保元年(1741)には、
小伝馬町の牢獄から小塚原刑場へ向かう罪人が、
人生の最後に涙を流して渡ったのが由来という。

その先にあるのが「南千住駅」。
常磐線・つくばエクスプレス・日比谷線が走行する。
その線路と車窓に映る「都バス南千住車庫」。

都バス南千住車庫


その地が江戸時代の刑場・小塚原の「仕置場」の跡であった。
間口60間、奥行30間余の都合1800坪余。
20万人が刑罰執行されている。

罪人ばかりとはいえない。
安政の大獄、井伊 直弼(いい なおすけ)は、
敵方の才気を恐れ、
志士「橋本左内」の若き芽を摘んでいる。

幕府は鈴が森と小塚原の街道筋に仕置場を置くことで、
見せしめの要素を持たせている。
町奉行所による刑罰執行の場は、
死罪、牢死、行倒れなどを“無縁”として埋葬し、
死罪の刑死者の遺体は、試し斬りや解剖に利用された。

又、徳川家の馬の埋葬地でもあった。
周囲は町続きの土地ではなく、
草が茫々と生い茂り、埋葬も土をかける程度。
ときに野犬やカラスが群がる殺伐たる光景を呈していた。
その姿に天保七年(1836)、
“無縁”一般の供養を担ったのが回向院であり、
隣に創建された法華庵であった。



―――明和八年(1771)、
浅草繩手山谷町泪橋にあった茶屋に、
杉田玄白、中川淳庵、前野良沢が待ち合わせた。
玄白と良沢は、共に『ターヘル・アナトミア』という
オランダ語で書かれた医学書を持参していた。
この書は、当時の人体に関する我が国の知識とは相違していた。

『ターヘル・アナトミア』に描かれた解剖図を確かめようとした玄白に
解剖見学の許可を与えたのは、町奉行所であった。
解剖の場所は回向院の裏に建てられた仮設の小屋である。
解剖を担うは、穢多(えた)という身分である虎松の祖父があたり、
八時間余りを要した。 

解剖が始まり、切り分けられ、
指し示される臓器と『ターヘル・アナトミア』を見合わせ、
その正確さに感嘆し翻訳を思い立った。
その帰途、仕置場に野ざらしになっていた骨をいくつも拾っては、
図版と見合わせ、その正確さにまた驚嘆させられる。

こうして翻訳に着手することになり、
安永三年(1774)『解体新書』として刊行するに至った。
その功績は近代教育機関内へと移り、
玄白は近代医学の祖として
時を越えて後世の人々に影響を与えてゆく。

―――回向院は史跡としても見どころがある。
玄白の観臓記念碑、橋本左内・吉田松陰ら、幕末の志士の墓。
変わったものでは毒婦高橋お伝、鼠小憎次郎吉、
最近の人では何を好き好んでか名プロレスラー、カールゴッチの墓などなど。


―――回向院隣り、常磐線路脇に鎮座するのが、
霊を弔う「首切地蔵」。
明治3年(1870)英国人ブラック撮影になるものは、
「仕置場」の形態を生々しく伝えている。
髷(まげ)の人物が時代を語り、背後に殺伐たる荒撫地が拡がる。
だが線香立や花台に人々の供養の心が窺える。

地蔵さまとて安泰とはしていられない。
その後、常磐土浦路線用地となり、
現在の回向院境内に移動安置された。
災難続きは明治四十三年の大水で首にまで浸かった記録もあり、
東日本大震災の時には、もしや?と駈けつけたら、
腕はポッキリ下に落ち、本体もズレていた。
「これはいかん!」と、
善男善女は早々に浄財集めに奮起。
秋には地蔵さまが穏やかに迎えてくれた。



―――ところでこの通り、
『コツ通り』と呼ばれるんだが、
地元の洒落でネ、仕置場の骨(コツ)じゃないんだ。
何百年も昔から「おわん」をかぶせたような小塚が点在していて、
一帯を小塚っ原、日光道中の小塚原(こづかはら)繩手と呼んで、
泪橋から千住大橋の街道を指していた。
でも、江戸っ子は気短かだから
“長すぎるぜ!” 
コツ通りでいいや。


<文・イラスト 田中けんじ>





いかがでしたか。
最後の仕舞いはちょっと明るかったですけど、
途中、ゾッとするお話もありましたね…。

田中教授の執筆場でもある「カフェ バッハ」に行こうと
「南千住駅」を出るとすぐに、
この小塚原刑場だったところがあるんです。

解体新書のくだり、
実は私も『冬の鷹』(吉村昭著・新潮文庫) でたまたま読み知っていただけに、
その情景を思い浮かべていました。

教授の話を聞いた後だと、
なんだかソワソワしてしまいます。

浅草。

ぜんぜん浅くない…

明日の後編は “江戸前”。


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