下町歴史部

浅草の水に映る古の町。
<前編>
『山谷堀』



さて、今日も田中教授が選んだ待ち合わせ場所は、
CAFE BACH。


「バッハブレンド」を味わいながら、
浅草の歴史散歩が始まります…。

モノクロの地図は田中教授が監修。原本はカラー仕様です。






〽月も朧に薄墨の絵に描くさまの真乳山(まつちやま)。


樹木おい繁る真乳山の堂宇。
おだやかに今戸橋をくぐる山谷堀は、
隅田川とあまり水位がかわることなく、
澱むでもなく清澄な水をたたえている。

河岸料亭の明りを前にして、
堀に入る屋形船や屋根船が順を待っている。

男女が歓喜を交わす秘仏が本尊とは、
いかにも吉原口にふさわしい。

新吉原が日本橋から浅草寺裏日本堤に
移転を命じられた明暦三年(1657)頃は、
遊客を乗せ上流の日本堤橋まで遡っていた。
ところが余りの繁昌に堀は混み合い、舳先(へさき)もままならぬ有様。
その上引き潮も重なる渋滞堀になってしまった。
見かねた幕府は正徳三年(1713)、
猪牙舟(ちょきぶね)だけか堀に入るよう改めたのである。



――山谷堀の水源は、
石神井三宝寺池の湧水と、小平田無用水の余水を集め、
石神井川として王子権限下で分派。
俗称「音無川」として田端日暮里から、
根岸「御行の松(おぎょうのまつ)」を三の輪に至り、
浄閑寺(じょうかんじ)前から山谷堀にそそぎ、
日本堤に沿って隅田川に合流した。



――延宝四年(1676)の大火で吉原が焼け落ちた。
その間、山谷の民家に妓楼の仮宅(女郎屋)が許される。
一年後に吉原が再建されると遊女は戻ったが、
安直な山谷の放蕩はすてがたく、色町の淫風が残った。

堀沿いの山川町辺りは五十軒以上の船宿が軒を連ね、
「山谷通い」、「堀の芸者」の言葉が生れる。
その中に一際輝く「堀の小万(こまん)」がいた。

貧しい夜鳴きそば屋の娘に生れ、船宿武蔵屋に売られた。
顔立ちと気っ風に加え、芸事の上達も早い。
料亭「八百善(やおぜん)」の常連客、太田南畝(おおた なんぽ)さんが
「小万」の素顔を見抜いた。


このままでは惜しいとばかり
小万の三味線を手にとるや胴裏に

〽詩は詩仙(しせん)、
書は米庵に狂歌乃公(おれ)、
芸者小万に料理八百善――。

江戸一番を書きつけた。

狂歌戯文は一筆何十両、当代きっての直筆、
爪弾く三味の音はお座敷を飛び出し、江戸市中に響きわたる。
噂を聞いた雲州松江藩松平出羽守治郷。
藩財政をたてなおした名君にして歌舞伎役者、力士が贔屓の風流大名。
ぎんぎら花魁とはちがう、
さらっとした着こなし生地の美しさ、
加えてぽんぽん言ってのける小気味良さに

「一目逢いたし小万を呼べ、苦しゅうない藩邸出入りご免である」

小万は文化年間(1804~1818)、江戸一流とうたわれた。



――江戸から明治・大正ともなれば、
堀の風情は文豪格好の舞台となる。
永井荷風は「墨東綺譚(ぼくとうきたん)」のさわりで、
日本堤橋裏通りの古本屋からお雪さんとの出会い、
「玉の井」へつないでいる。

「わたしがわざわざ廻り道までしてこの店を探ねるのは、
古本の為ではなく、
古本を鬻(ひさ)ぐ亭主の人柄と廓外の裏町。
その情味によるものである。



――川端康成は「浅草紅団」に紙洗橋を登場させている。
「……とある路地」とは――吉原土手の紙洗橋の四辻までは出ずに、
日本堤の消防署の火見櫓の頭が見える……
「紅団員」の拠点を、住んだことのある地元に設定している。

〽葦微ぎ、猪牙泡沫(ちょきうたかた)の山谷堀――。



――池波正太郎の描く山谷堀は生誕地ゆえ自然体である。

「小判二十両・梅雨の柚の花・秘密・逃げる人」

多くの作品は山谷堀風物が匂い立ち
地元への思いに溢れている。

三百年の歴史を閉じた山谷堀は、
昭和51年から60年頃に全て埋められた。
現在は日本堤ポンプ所から雨水を隅田川に排除する下水道になり、
上部は桜並木の公園である。
私は毎日堀跡を跨ぐ。
何のことはない、いつものコーヒー屋が山谷にあるのだが、
江戸文化を見つめてきた橋台がいとおしい。

例えば山谷堀橋の来歴
「本橋帝都復興事業トシテ新設シタルモノナリ、
昭和四年、工費壱萬九千四百圓東京市」、
大正十二年の大震災後橋は架け替えられた。




――最高峰の香り、喉ごしに集う人たち……
そんな店が台東区にある。
沖縄サミットの晩餐会に選ばれた馥郁たる香り、
それが山谷(日木堤1-23)からの発信とは今の時代、
『本物は場所を選ばず――。』最たる店であろう。
銀座など幾多好条件の誘いにも、
「地元が育ててくれた店だから」と、下町の義理人情を忘れない。

『バッハ』の田口護氏と文子ママ、自信の笑顔である。


<文・写真・イラスト・資料 田中けんじ>




田中教授の散歩みちは、
地図では決してわからないベールの向こうへ…。
まだまだ話が尽きないところで、

「すみません、翡翠(ひすい)を2つお願いします」

翡翠…?

続きは明日に…

ご自身の作品の前で。




著者名:

DOMINISTYLEの活動を楽しんでいただくために、様々な活動を行っています。サウナビギナーで、最近、ウィスキングに興味津々。