下町歴史部

浅草と上野のあいだ。
<後編>
『黄金バット』

浅草の矢先稲荷神社境内。
ここに浅草三十三間堂を、
“シャッター絵”で蘇らせた田中教授。

今日は、この境内で子供が賑わっていた当時に思いを馳せつつ…






――路地の向こうから拍子木の音が響いてくる。

“紙芝居がきたぞう!”

子供たちは家へ飛んで帰り、
母親からお小づかいを貰い、
自転車紙芝居の前に並ぶ。

飴の箱に“ゴックン!”

『ちいさい子は前、大きい子はうしろ、
ただ見はずっとうしろ――』

黄金バット出現!

いっせいにシーン………

遠くから
『とーふぃー、なまあげ――、がんもどき』
けだるい声が聞えてくる。


――戦前から戦後にかけて、
日本中の子供たちを熱狂させた紙芝居『黄金バット』。
作者画家「加太こうじ」も時代のヒーローであった。


生れたのは大正七年(1918)、浅草神吉町。
家から浅草寄りは松葉町、
先祖は十二世紀「伊勢の国」で山城を持つ戦国武士で、
380年前に江戸にきて江戸城に呉服物などを納め、
同時に大名等に融資をして利息を取ったが、
明治維新で幕府がなくなり、
一夜にして貸す身が借りる側となり、
“カネ”を返して貰えず江戸の豪商「伊勢八」は倒産した。

彼は14歳から一家の長として紙芝居を描いて稼ぎ、
没落家族の父母弟妹を食わせた。
大正から昭和にかけて松葉町には
六区の演歌師や大道芸人が本拠地にする『いろは長屋』があった。
昭和四年頃〈電蓄(でんちく)〉が流行ると演歌師はすたれ、
大道芸人たちが街頭紙芝居を考えた。
その中で鈴木一郎の台本と永松武雄が描く『黄金バット』が生れる。

そして昭和七年、「いろは長屋」に出入していた加太少年が、
面白い発想をする若造だと眼をつけられ、
二代目を継ぐことになった。
14歳であっても一端の絵描き顔を崩さず、
斬新な物語の展開に人気爆発。
尾久や金町に弟子を抱え『ともだち会』を結成、
23年間に描きも描いたり、20万枚を創作した。

仕事の息抜きは浅草、矢先神社から堂前を抜け、
かっぱ橋本通りを歩き、六区の灯が見えてくると胸が高なり、
着物の襟を合せるのがクセだった。
「すしや横丁」角の来々軒の支那ソバで腹をこしらへ金龍館に入る。
その頃の浅草は「エノケン」が絶大な人気で、
三階奥まで客がビッシリ、
二階一番前の客が押されてぶら下る。
「エノケン」が“危ない!”と叫ぶ間もなく一階席へ落ちてくる。
客が降る浅草だった。
加太も「エノケン」人気に負けじと描いていた。

次第に自分は親分肌の性分(たち)だと気がついた。
商売の弁舌(ベシャリ)が幸いして組織をまとめ、
全国津々浦々に五万人の拍子木が鳴り響く……。


◇戦後の日本は、アメリカを中心とする連合国の占領下にあった。
その為、軍国主義賛美や連合国批判は絶対に許されない。
あらゆるメディアの検閲に、マッカーサー率いるGHQは目を光らせ、
紙芝居も対象に含まれていた。
加太は自作の『黄金バット』を手にGHQに乗り込む。

《黄金バットは新しい日本と世界平和を守るヒーローで、正義の味方である――。》

明快なストーリー、大柄でハリウッドスター早川雪洲を思わせる、
迫力タップリの弁舌にGHQは“OK!”
加太に著作権を認めた。

以後、誰が行っても他人の作品は検閲を通らず、
お墨つきのボスをして信頼される。


――紙芝居ブームは巷にも波及する。
かっぱ橋道具街にある「飯田製作所」。
団塊世代には懐かしい色とりどりの丸い小さなチョコレートなど、
時代のヒット商品を生み出す製菓機製作会社だが、
戦後、若き二代目〈飯田一〉さん(現会長)のもとに、
田端で紙芝居と飴を商う貸元※から、
「余りの人気に飴の供給が間に合わない、多量生産機が欲しい。」と注文があった。
※貸元…紙芝居師に紙芝居を貸す元締(編集部注)

完成後、その機械に満足され集金に伺った。
価格は四万円、現在の貨幣価値で30倍の大金である。
さて、その段になり眼を疑った。

!?

なんと、「一斗缶四本が代金です」と渡されたのである。

水飴四缶の集金では社長の大目玉が眼に浮ぶ……
お客さまはニッコリ☺笑ってフタを開けた。

なんと中にはビッシリと一円札が詰っていた。
純粋なこども相手四万人の商いに胸があつくなる。
自転車の荷台に高々と積んで田端からフラフラと、
お金に酔った気分で帰ってきた。
これには社長も“ウハハハ……”
黄金バット正義の商いだった。


――あれほど人気のあった紙芝居も
昭和28年電気紙芝居(テレビ)が登場すると、
人気は力道山にバトンタッチ。

空手チョップはシャープ兄弟どころか、
黄金バットと加太を“ノックアウト‼”
時代の徒花と散った。
ところが良くしたもので、
紙芝居の語りが幸いして、大衆評論家として祭り上げられ、
「電気紙芝居」のお世話になるとは皮肉なことである。

この頃はふらりと西浅草の喫茶「ピーター」が心地良い。
カップを手に眼を瞑(つぶ)れば、
時代を駈けたヒーローや芸人が走馬灯のように浮んでくる。

“そうだ、ママさん壁を借りるよ!”

加太は一面に黄金バット、エノケン、浅草芸人の姿を描いた。
しかし、出汁の効いた「ママカレー。」
絵も上手いが、この店ではこっちの方がウマイ。
(加太こうじさんは、1998年没)



<文・イラスト 田中けんじ>





いかがでしたか?

もう紙芝居なんて見ることもなくなりましたが、
子供たちが握りしめてきた、くしゃくしゃの一円札が詰まった一斗缶。
払うほうも、受け取るほうも、粋ですよね〜。

そんな粋を語り継ぐ田中教授、
次は、どこへ向かうのでしょうか…

田中教授と路上打合せをするのは、月刊 浅草(1970年刊)の編集人・高橋真似子さん。DOMINISTYLE 下町歴史部に、何か新しいご縁の予感…。



浅草と上野のあいだ。<前編>『かっぱ橋』




著者名:

DOMINISTYLEの活動を楽しんでいただくために、様々な活動を行っています。サウナビギナーで、最近、ウィスキングに興味津々。